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マイブーム「論語」にはまっております⑦~濁った世の中で苦しむこと

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「論語物語」(下村湖人著、講談社学芸文庫)に、「「渡し場」という一編があります。これは、の「長沮桀溺耦(ちょうそけつできぐう)して耕す。」という一文から始まる「論語」の「「微子第18」をモチーフにした小編です。


 孔子一行が当時の楚から蔡に引き返す途中で、「渡し場」がどこであるか迷い、孔子の弟子の子路が、農作業をしていた 長沮と桀溺という「隠士」に道を尋ねます。しかし、この長沮と桀溺という「隠士」は、子路に向かって、「お前さんは、あの孔子の仲間なのか?」と言われ、「今の世の中はどろどろの沼みたいになっている。それならば、人を避ける孔子に従うよりも、泥水がかぶらないように世を避けて暮らしている我々隠士のような人間に従うべきだ」と言われ、「渡し場」の道も聞けず、孔子の元に戻ります。

 この一部始終を聞いた孔子は、「山野に放吟し、鳥獣を友とするのも、なるほど一つの生き方であるかもしれない。しかし、わしにはまねのできないことじゃ。」と述べ、「わしはただ、あたりまえの人間の道を、あたりまえに歩いてみたい。つまり、人間同士で苦しむだけ苦しんでみたい、というのがわしの心からの願いじゃ。そこにわしの喜びもあれば、安心もある。子路の話では、隠士たちは、こう濁った世の中には未練がない、といっているそうじゃが、わしにいわせると、濁った世の中であればこそ、その中で苦しんでみたいのじゃ。」と言います。

 乱れた、濁った世の中、これは2000年前も、現代も同じです。この隠士達の考え方は、だからこそ、そうした乱れた、濁った世の中からの「泥」をかぶらず、心平穏に暮らしたいというのでしょう。今で言えば、一種の「引きこもり」的な暮らし方なのかも知れません。しかし、この「隠士」の生き方を、この「論語物語」中の孔子は、「卑怯者」だと評価します。

 この時期の孔子は祖国を出て、亡命中であったようで、反体制の革命集団としての立場であり、決して順調な時期ではなかったようです。それが、孔子をして、「濁った世の中」であり、それを変えることが必要であり、「その中で苦しんでみたい」とまで言わせたのでしょう。

 いつの時代も乱れた、濁った世の中であるとすれば、その中で何とか生きていかなければならないのが人間の宿命と言えます。この小編から、大げさですが、人間の生き方ということを考えさせられます。

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